風に揺られ、木々の葉が小さく実りの歌を唄う。

「―――……?」

アレンは珍しそうに、その樹を見上げた。
太陽の恵みの下、木の葉が燦々と輝く。

(…何をそんなに、喜んでいる……?)

心無い人間達の伐採はいまだ続いている。
日々気を張り詰め、ぴりぴりと気配を探る自分に木々はほとんど何も言わない。
だがアレンにとっては、それで良かった。
何故ならここは自然の恵みの聖地。
人間である自分はどうしたって、そのサイクルには入れぬのだから。
人が無理にそこに入り込もうとすれば―――歪みが生じてしまう。豊かな森は枯れ、鳥の鳴き声は絶え、清らかな水はたちまち濁ってしまう。アレンは何度となく、そういう光景を目の当たりにしてきた。
だから―――自然は、遠くから崇め、護り、感謝するもの。手を入れ、自分達にとって都合の良いように作り変えてはならないもの。
アレンにとって自然とはそういうものだった。

だから、少しだけ驚いた。

いつもは無言の木々達が――――嬉しそうに、何かを待つように、さわさわと揺れているのを感じとったから。
その樹だけではない。
聖域だけでなく、森全体が、何かを待っているようだった。

―――何を…?

アレンは眩しげに目を細めた。
隣で佇む灰色熊のドッドが、小さく鼻を鳴らす音が聞こえた。

今日も聖地は、みずみずしい匂いで満ちている。










□■□










千年前の自分は、あのハオに惹かれていた。
彼の傍にいたいと、強く願っていた。

(……でも)

わたしは、ちがう。

此処にいるわたしは彼を望んでない。
でも、あれは確かに―――わたしの中に眠る記憶。
魂の、記憶だった。

(…ハオも、わたしが思い出すことを望んでいる……ううん。違う。あの人が望んでいるのは―――)

――――

そう呼ばれていた、彼女だ。
此処にいるわたしでは、なく。

(……じゃあ、)



此処にいるわたしは、一体何なのだろう



夢の中の自分は、まるで別人のようだった。
否、確かにあれは別人だった。
性格も、口調も、行動も―――しなやかな強さを秘めた、凛と佇む姿。
そして、あんなにも真摯にただひたすらに、守りたいと願う意志。
星の乙女としての記憶も、彼女はしっかりと持っていた。具体的な内容までは、わからなかったけれど。

ここにいるのは、記憶のない自分。
まっしろな自分。

でも。
なら。

ハオの願った通り、わたしがだった時の記憶を取り戻したとして―――





その時『わたし』は、どうなるの?





それぐらい彼女の記憶の一片は、にとって強烈だった。
自分とは違う。
自分よりもずっとずっと―――例え何があっても、受け止める強さを持っていた。

そんな人の記憶が蘇ってしまった時。
わたしは―――わたしのままで、いられる?

が戻ってきたとき…『』は消えないままで、いられる?

―――気になるのはそれだけではなかった。

ハオのこと。
否。
あの、夢に出てきた『麻倉葉王』という青年のことだ。

葉王とハオ。
音は同じ。
顔も…どことなく、似ていた。

あれは――――たしかに、同一人物。肉体は違えど、そこにある魂は同じだった。

けれど、何かが違っていた。
何か。何だろう。
うすぼんやりと、でも、決定的な何か。

じっと考え込んで、やがては思い当たった。

不安定さ。
そう、あの葉王という青年には、どこか不安定な、迷いのような、そう敢えて言うのなら――――弱さが、あった。
けれどそのせいで、葉王のほうがハオよりも断然人間らしく感じた。
ハオにはない心の揺らぎ。
それが、葉王にはあった。

は――――たぶん、その部分に惹かれたのだ。

そして。
あの葉王の苗字、麻倉。
アサクラ。

同じ苗字を持つ少年を、は知っている。

(葉と何か関係あるの…?)

確かに彼らは面差しが良く似ていた。
だけどそれだけだ。全体の纏う雰囲気は全く違う。
ハオは、葉の血縁者だろうか。でも、葉自身は全く知らないようだった。

――――麻倉葉王。そして、ハオ。
謎は尽きない。結局彼は何者なのだろう?

が惹かれていた人物。
あんなにも傍にいたいと切望していた、ひと。



わたしがの記憶を思い出したら
わたしも葉王という人のことを好きになってしまう?




不意に胸に忍び込んできた考えに、自分で愕然とした。
そうだ。
としての記憶を思い出すということは、の想いも思い出すということで。
それが丸々蘇ってしまったとき。



わたしの想いは、どこへいってしまうんだろう―――?



――――『俺はあいつの事など………何とも思っちゃいないっ!』

はぎゅっと己の膝を抱え込んだ。
あれから数日経った今も、まだ、ヒリヒリと痛む想いがある。
夢が、の記憶が訪れるのが怖くて、余り眠れていないせいもある。

そして
リゼルグを傷つけたこと。

何度も後悔した。
何度も、何度も。
あんなにたくさんの気持ちを貰ったのに。
大切な、ほんとうに大切なものを。
時には叱られ、励まされて、ここまで来たのに。
眠れない代わりに、何度も心の中でごめんなさいと繰り返していた。
幾晩も。幾日も。

……だけど。


ああ、わたしって、ほんとうに、ばか。




それでも最後に残るのは――――忘れられない、あの人のきれいな金瞳だった。




…叶わないのに
あの人はわたしを求めてはいないのに


なのに、
まだ



焦がれている。





(わたしは……蓮が、すき)




それだけは、変わらなかった。手放せなかった。






は、同じように灼熱の日差しの下、地面に座り込んでいるリゼルグを見た。

彼とはあの日以来、気まずくなってしまった。
蓮と同じように。
…大切な人を失うというのは、きっと、こういうこと。

改めて、ごめんなさいと直接伝えることは、何となくできなかった。
それはまた、違う気がして。
でも


(いつか……また、笑いあえたら)






彼を傷つけたのは、自分。
だから絶対に叶って欲しいなんて―――そんな勝手なこと、今の自分には言えないけれど。












「―――――!」
「…っ、ひぁ…!」

突然頬にぴちゃりと冷たいものを押し付けられ、は驚いて飛び上がった。
恐る恐る顔を上げてみると―――太陽を背に笑うホロホロがいた。

「とゆーわけだから、宜しくな!」
「え?」

物思いに耽って、全く聞いていなかった。
目を丸くしたを、ホロホロは「聞いてろよ!」と軽く小突いた後、

「空腹でへばってるあいつらの為に、ちょっくら食料調達してこようぜって話だ」

そう言って渡されたのは、拳ほどの氷の塊だった。
彼の持ち霊・コロロの能力だろう。

じりじりと太陽に灼かれる中、それはひどく冷たくて気持ち良かった。

水も食料も、もう尽きていた。
竜のオーバーソウルでも、何かあったのか、待てど暮らせどビリーはやって来ない。
そんな状況を、はようやく思い出した。

「…え、でも、わたしも…?」
「お前最近動いてねーだろ。気晴らしに付き合えよ。……ま、何か見つけたら一番に食わせてやっからよ」

ニッと笑い、ホロホロが手を差し出す。
はぼんやりとその手を見つめた。

空腹どころか食欲すら余りない。
けれど、今こうして気分が落ちているのは―――精神的なもののの方が大きかった。

(……気晴らし)

それでも、少しは気が紛れるのなら。
…それぐらいは、許される?

「……うん」

はその手を取った。










□■□










――――なつかしい。

ホロホロの後を着いて歩きながら、が抱いたのは何故かそんな感情だった。

ほどなくして着いたのは、今までいた赤茶けた土ばかりの場所とは別世界のような、木々の生い茂った地。
灼熱の陽光も、木の葉が遮ってくれているのか、ひやりと涼しい。
水の匂い。緑の匂い。
豊かな自然の匂いで溢れていた。

(でも、わたしは此処に来たことはない…のに)

どうして懐かしいんだろう。
忘れてしまっているだけ?
他の、星の乙女としての記憶と同じように?

(……ちがう)

それとも何か違う気がした。
だけど、その何かがわからない。掴めない。
は内心首を捻るばかりだった。

「…きれいなとこだね」
「来て良かったろ?」
「うん」

ホロホロは、優しい。
元気ないことを知っていて、こうやって連れ出してくれて。
…でも、何も訊かない。訊かないでいてくれる。

「―――…あ」

歩いていると、ふと奥に一際大きな樹が一本立っていることに気付いた。
何となく近づいてみる。

そっと幹の表面に触れて。
そのどっしりとした硬い感触が、何となく心を落ち着かせてくれる。

(…この樹)

随分古い樹だ。もしかしたらここら一帯では一番古いかもしれない。
そよ風に、葉の擦れあう音がする。

さらさらと
微かな音が耳朶を満たす。

(……慰めてくれてる…?)

ふと、そう感じた。
なぜかは分からない。
でも、

心に沁みこんで来る、何かがあった。

「………」

そんなの様子を、ホロホロがしばし見つめて。

「…よし。じゃあ、お前はここで休んでろ。俺は食えるモン探してくる」
「え…? わ、わたしもいく」
「ばっかやろう、狩猟は男の仕事なんだよ。大物獲って来るから、な?」

そう快活に笑うと、ホロホロはまるで放たれた野生の動物のように、颯爽と森の奥へ駆けて行ってしまった。

「…行っちゃった」

完全に出遅れてしまった。
ぽつりと呟き、伸ばしかけた手を、は仕方なく引っ込めた。

――――。

ここは、静かだ。
都会の喧騒、人の話し声、車の騒音――そういった人工的な音がしない。
聞こえるのは、遠くで鳴く鳥の声や、風の音。
ホロホロの気配も、既に近くにはない。

(………あ)

そうして気付いた。
何が懐かしかったのか。どうして、そう感じたのか。
そうだ。ここは。

「…カミサマ」

呼びかけるように呟く。 すると、それに呼応するかのように風がざあっと舞い上がった。

それを見て―――の肩から、ようやく力が抜けた。

この森は今までの場所に比べ、カミサマの気配がずっと強かった。
アメリカに来てから、否日本でだってこんなに近く感じたことはなかったのに。
…珍しい場所。
今の時代に、こんなにもカミサマを近くに感じられる場所が存在するなんて。

木々が揺れる。

「……守ってくれている人が、いるの……?」

微かに心に流れ込んでくるイメージがある。
それは本当に微かに、ともすればたちどころに消えてしまいそうな、淡い淡い夢のようなヴィジョン。
それでも、

「あなたたちは、そのひとが、大好きなのね」

ヒトのように迷わず、ヒトのように惑わず、
ただ己が生きる道を見つめ、ひたむきに、ひたすらに生きる木々達のヴィジョン。
だからこそ、スッと真っ直ぐに心に入ってくるものがある。

はその根元に腰を下ろすと、ぽすんと幹に頭を預けた。
視界に拡がるのは、真っ青に生い茂る緑の葉。
背中に感じる樹の感触。それは、仄かに温かいように感じた。
まるで、しっかりと抱きとめてくれているように。

―――やさしいこ。
はそっと目を閉じた。

「ありがとう。…すこしだけ、こうさせていて」

息を深く吸って、吐く。
それだけで、心の中のもやもやが、澄んだ空気の中にとけていくような気がした。

(カミサマ)

――――『わたし』は一体、だれなの?

ここにいるわたし
千年前の私
そして、と名乗ってきたという、それ以前のわたし

沢山存在する『自分』。
でも…

本当にすべて、『わたし』なのだろうか。
ぶつ切りになっている記憶。
今の『わたし』には、この世に生まれ、蓮と出逢った頃から、ココまでの記憶しかない。
千年前も、それ以前の記憶も、ない。
だからどんなに夢が降りてきたとしても―――今は正直、他人の記憶としか思えなかった。それは、あのシルバに星の乙女の役割を聞かされた時の感覚と、酷く似ている。
夢として表層化された記憶と、今ここにいる『わたし』という自我の間には、薄い膜のような、壁のようなものが確かにあって。
結局の所今のにとってはも、先代までの星の乙女たちもすべて、他人でしかないのだった。
もっとも近しい存在。
だけれど自分とは決して相容れぬ、自分以外の存在。
の夢を見ても、その鮮烈なイメージにあてられこそすれ、懐かしいと思う気持ちはまったく生まれなかった。



そうしてまた硬く沈んでいく心を、ふわりと優しく撫でてくれる気配がある。



大丈夫。
大丈夫。

私はヒトのように口を持っていないから、代わりに梢を鳴らして語りかける。
私はヒトのように伸ばす腕を持っていないから、代わりにその肩を太い幹で受け止める。

私は知っている。
ヒトのように声を持たなくとも―――この少女には、正確に想いが届くことを。

少女が何か重いものを背負っている。
だから、私は私にとってとても明るく楽しい想いを彼女に伝えた。
少しでも、彼女の心の中の重いものが、減ってくれるように。
冷えた心を温められるように。

私達をいつも護ろうとしてくれる存在。
もう数少ない、私達の心の片鱗を感じ取ってくれる人間のことを、伝えた。

その彼はひどくひたむきで、純粋で、それ故に曲げられない意志を持つ強い者。
幼い頃から私達と共に在り、文明の進化と同時に排除されていく私達を見つめ、やがて私達の生きるこの地を丸ごと護ろうと思ってくれた。

彼はとても、強い人。そして、とても優しい人。
だけど、だから
昔のようにもっと深く触れ合えないことが、少しだけ、淋しい。
私達を傷つけない為に輪から外れ、私達を護る為に一人距離を置いている彼に、

少しだけ、こころが、痛い




「―――誰だ」



響き渡った声に、はぼんやりと目を開けた。

(夢…?)

どうしたんだろう。
視界がぼやけて、四肢が重たい。
まるでまだまどろんでいるかの様に―――心地良いだるさが意識を支配する。

その気配は、ざくざくと土を踏んで、近づいてきた。
ぼやけた視界にその顔が映る。

(ああ、)

たった今、夢を見ていた気がする。
あたたかくて、午後の日差しのように包み込む、柔らかな夢。
過去など関係のない、久々にほんとうの夢だった。
そして目の前のこの少年が、その夢に出てきたような、気がする。

「こんな所で何をしている」

まだの意識は、夢と現実の狭間をゆらゆらと漂っている。
そうして焦点の合っていないの顔を、少年は思い切りじろりと見つめ―――やがて、酷く怪訝そうな顔をした。



「お前―――にんげん、か?」



突然、遠くの方で鳥が一斉に羽ばたく音がした。
同時に微かに風に乗って聞こえる―――動物の悲鳴。

そこでようやく、はハッと目を覚ました。
少年がはっきりと顔に嫌悪の色を浮かべ、音のした方を睨みつけている。

「くそ、またあいつらか…」

(あいつら…?)

尋ねる暇もなかった。
少年の正体すら、明かされぬまま。

「…、っ、わ」
「来い」

気付いたらは、少年に腕を掴まれ、走らされていた。